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三ツ矢サイダー ~明治から令和に続くサイダーの歴史~

著: ニコチアーナ・フブキ
編: 桜城蘭

目次

三ツ矢サイダー ~明治から令和に続くサイダーの歴史~

はじめに

 透き通った透明色の飲料、シュワシュワと弾ける炭酸、レモンやライムなどの柑橘類をベースにした甘酸っぱくも爽やかなフレーバー……幼少の頃、カンカン照りの太陽の下で喉を鳴らして三ツ矢サイダーを飲んだことがある方も多いのではないでしょうか。

 アサヒ飲料株式会社から販売されている『三ツ矢サイダー』は、1884年(明治17年)の販売開始から実に140年もの歴史があります。1
 年間約1,000点の新商品が現れては無残にも散っていく清涼飲料業界において、これほど長い間間人々に愛され、販売し続けている商品はそうあるものではありません。2明治から令和を時代と共に歩んできた三ツ矢サイダーは、一体どんな歴史を紡いできたのでしょうか?

 当館にも容器、ラベル、パッケージが展示されている三ツ矢サイダーの成り立ちと現在に至るまでの過程について、ご紹介したいと思います。

三ツ矢サイダーのビン・缶など(出典:B宝館)

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そもそもサイダーとは?

 三ツ矢サイダーの話に移る前に、「サイダー」について説明していきます。

 日本語の「サイダー」は、英語のciderが語源です。ただ現代英語の用法とはかなり乖離しています。英語圏でもciderの意味は地域によって異なっており、イギリスでは発泡性のリンゴ酒を指し、北米ではアルコールを含まないリンゴジュースを指します。ちなみに英語のciderの語源になったフランス語のcidre(シードル)は、炭酸を含まない非発泡性のリンゴ酒を指しています。各言語によってサイダーの意味が微妙に異なっているのが面白いですね。34

 日本語の「サイダー」は専ら炭酸を含んだ清涼飲料水(つまり炭酸飲料)の総称として使われていますね。正確な由来は不明ですが、後述するように日本におけるサイダー受容はイギリスに負う部分が大きく、それがいつしかイギリス英語の語義にあるリンゴ酒の部分が抜け落ち、炭酸成分を含んだ飲料を指す和製英語として落ち着いたようです。

 日本におけるサイダーは、18世紀の中ごろにレモネード(レモン果汁を水で割り、砂糖などの甘味で味付けをした清涼飲料水)に炭酸水を入れたもの、つまりレモンスカッシュの原型がイギリスで誕生し、それが幕末から明治にかけて日本に上陸したことを機に発展していきます。5

レモンスカッシュ(出典:photoAC)

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三ツ矢サイダーの前身『平野水』

 明治時代を迎えて開国した日本は、外国人の接待時に振舞うための炭酸水を確保する必要が出ました。明治政府の要請を受けたイギリス人、ウィリアム・ガランは日本各地の水源を調査し、やがて1811年(明治14年)平野鉱泉を発見しました。この鉱泉から産出される炭酸水『平野水』が、後に三ツ矢サイダーの誕生に繋がることになります。

 兵庫県川辺郡多田村字平野(現在の兵庫県川西市平野、多田銀山の一部)にある平野鉱泉は、元々は炭酸泉の名湯として知られていましたが、江戸時代末期には廃れてしまっていました。それが炭酸水の供給源として「再発見」された形です。6

 1884年(明治17年)には、平野鉱泉から産出される天然炭酸水が『平野水』として世に登場しました。平野鉱泉を含む多田銀山は宮内省(現・宮内庁)が管理する土地でしたが、その後三菱財閥に払い下げられ、『平野水』の販売は小売業者の明治屋に三菱財閥から委託されることになります。が、しばらく販売不振が続き、1905年(明治38年)には三ツ矢平野礦泉合資会社から『三ツ矢印平野水』の名で販売されることになります。7

 ここで現在の商品名にも入っている「三ツ矢」が登場しました。「三ツ矢」の名称は、清和源氏の祖である源経基の子、源満仲の伝説に由来しています。朝廷から摂津国多田村(平野鉱泉がある、現在の兵庫県川西市平野が含まれている地域)の土地を拝領した満仲は、現在の大阪府にある住吉大社に参拝した時、自身の城をどこに建てたらいいか尋ねました。すると「放った矢が落ちたところに建てればよい」との神託を受けました。満仲は神託に従って矢を放ち、配下の武士に矢を探させたところ、長らく当地の住民たちを苦しめていた「九頭の龍(くずのりゅう)」に命中しており、龍は死んでいました。矢を見つけ出した孫八郎は「満仲の矢」、転じて「三ツ矢」の姓を与えられ、重臣に取り立てられたとされています。8

住吉大社(大阪府)(出典:photoAC)

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夏目漱石、大正天皇が愛した炭酸水

 1897年(明治30年)には平野水は当時皇太子であった大正天皇の御料品(皇室御用達の品)に採用され、その品質の高さが伺えます。9

 また大正天皇のみならず、平野水を愛飲していた同時代の有名人が居ました。かの文豪、夏目漱石です。漱石は1910年(明治43年)に胃病を患い大吐血をして、生死の境を彷徨いました。文学史上でもよく取り上げられる、「修善寺の大患」です。治療の甲斐あって回復した漱石は、この「修善寺の大患」を振り返った随筆『思ひ出す事など』を著します。その一節に漱石が平野水を飲む描写があるので、引用します。

「(中略)日に数回平野水を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半にしばしば看護婦から平野水を洋盃(コップ)に注いで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している」

夏目漱石『思い出す事など』

 『思ひ出す事など』は全33章で構成されており、この文章が書かれている第26章では、ようやく体調が回復してきて食事ができるようになった漱石が、平野水を飲む様子が書かれています。 胃病のために食べ物どころか水もまともに飲めなかった漱石が、喉を潤すため美味しそうに平野水を飲む描写は、グルメリポーターも真っ青な筆致と言えるでしょう。また漱石宅には冷蔵庫があり、そこにもやはり平野水が常備されていたようです。101112

新宿にある夏目漱石像(出典:photoAC)

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三ツ矢’シャンペン’サイダーの誕生

 1907年(明治40年)に帝国鉱泉株式会社(先ほど出てきた三ツ矢平野鉱泉合資会社から改組した会社)から、平野水を元にしたサイダー『三ツ矢印 平野シャンペンサイダー』が販売されました。1921年(大正10年)には『三ツ矢シャンペンサイダー』と改称されます。

 冒頭で述べたように、三ツ矢サイダーと言えば透明色のイメージが強いですが、当時味付けとして使用されたのは着色料に砂糖を煮詰めて作られた茶褐色のカラメルであり、見てくれもそのままに茶褐色の炭酸飲料として販売されていました。またスパークリングワインでもないのに何故商品名に‘シャンペン’と付いているかというと、フレーバーには横浜の『ノース&レー商会』が販売していた『シャンペンサイダー・エッセンス』を用いていたためです。高級スパークリングワインであるシャンパンを彷彿とさせる名称は、三ツ矢サイダーの印象アップに一役買ったものの、後述するように1968年(昭和43年)には商品名から‘シャンペン’が消えることになります。13

 ただ当時から既に、通称として「三ツ矢サイダー」が使われていた記録があります。(当時の広告でも、「三ツ矢サイダー」とだけ書かれたものが残っています)
 また小噺として、当時の商標登録の記録を見ると、「三ツ矢」だけではなく「二ツ矢」「四ツ矢」「五ツ矢」も登録されていたことが分かっています。おそらく模倣品による標榜を防止する意図があってのことだと思いますが、ロゴも含めて丁寧に五ツ矢まで商標登録されている様は何ともシュールです。14

シャンパン(出典:photoAC)

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宮沢賢治とサイダー(そして天ぷらそば)

 平野水を愛飲していた夏目漱石と同様に、三ツ矢サイダーにも文豪のファンがいました。『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』などで知られる宮沢賢治です。
 岩手県立花巻農学校に教諭として赴任していた賢治は、同僚と行きつけの蕎麦屋で「一杯飲む」ときは、ビールや日本酒ではなく決まってサイダーだったようです。
 後年は菜食主義者となった賢治ですが、この時は特に食へのこだわりはなかったそうです。蕎麦屋に行っては好物の天ぷらそばとサイダーを注文し、同僚たちと語らっていたと伝えられています。また学生たちにサイダーを振舞うことも度々あったとのこと。
 残念ながら宮沢賢治が飲んでいた銘柄が三ツ矢サイダーであることを裏付ける物証はないのですが、当時のサイダー業界は三ツ矢サイダーが圧倒的なシェアを誇っていたことを考えると、状況証拠的に三ツ矢サイダーを飲んでいたことは間違いないとされています。天ぷらそばとその油をさっぱり洗い流す三ツ矢サイダーは、素晴らしいペアリングではないでしょうか。 ちなみに賢治が足繁く通っていた蕎麦屋は、現在も岩手県花巻市にある『やぶ屋』というお店です。賢治はこの店のことを、「」を英語に訳して「Bush(ブッシュ)」と呼んでいました。1516

三ツ矢サイダーのラベル(出典:B宝館)
※賢治が飲んでいたとされる時代のラベルは右から2つ目

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敗戦からの復活、『全糖三ツ矢シャンペンサイダー』

 第二次世界大戦によって、三ツ矢サイダーの生産設備は壊滅的な被害を受けました。それでも1946年(昭和21年)年8月には何とか製造再開までこぎつけます、しかしながら当時は終戦直後で物資不足が深刻であり、中々思うように製造が進みませんでした。
 戦後しばらくは、三ツ矢サイダーの甘味成分には砂糖ではなくサッカリンやズルチンなどの人工甘味料が使われていました。ただそもそもこの人工甘味料自体が貴重品だったので、その日使用する分の人工甘味料を、社員が金庫から取り出して岡持ちで工場に持って行ったという逸話も残っています。17

 1950年(昭和25年)には嗜好飲料用砂糖が配給されるようになったので、砂糖と人工甘味料を併用できるようになりました。また1952年(昭和27年)には業務用砂糖の統制撤廃を受け、『全糖三ツ矢シャンペンサイダー』が販売されました。その名の通り、人工甘味料を使わずに純粋に砂糖のみで味付けされたこの三ツ矢サイダーは、通常のものよりも流通量が少ないうえ値段が高く、高級品として扱われていました。60代以上の方は、青色の王冠である『三ツ矢シャンペンサイダー』と、赤色の王冠である『全糖三ツ矢シャンペンサイダー』の2つが販売されていた時代をよくご存じかと思います。1819

岡持ち(出典:photoAC)

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透明化、そして『三ツ矢サイダー』へ

 人工甘味料として用いていたズルチンの安全性が疑われ始めたことを受け、1961年(昭和36年)にはアメリカで開発されていたチクロ(サイクラミン酸ナトリウム)へと切り替えました。しかしこのチクロについても1969年(昭和44年)にはFDA(米国食品医薬品局)による発がん性の疑いなどの指摘を受け、全面使用禁止となってしまいます。

 この‘チクロショック’を受け、販売元のアサヒビールは人工甘味料を使用していた製品の製造を中止し、三ツ矢サイダーについても砂糖のみを用いていた『全糖三ツ矢サイダー』にブランドを一本化します。この時、安全性をアピールするために合成着色料の使用も中止され、現在に続く透明色のサイダーとして生まれ変わりました。20

 また同時代に、もう一つ象徴的な出来事が起きました。現在に続く商品名『三ツ矢サイダー』への改称です。

 三ツ矢サイダーの商品名にシャンペンと付いているのは、使われていたフレーバーが由来であるのは前述の通りです。ところが1968年(昭和43年)、フランスのシャンパンメーカーから全国清涼飲料連合会に、「貴会会員に、シャンパンを彷彿とさせる商品名の商品を取り扱っている会社がいる」との抗議が来ました。本来シャンパンという呼称は、フランス北東部に位置するシャンパーニュ地方で作られた発泡性のワイン以外に用いてはならず、日本が商標の国際規約を批准したこともあり、商品名から‘シャンペン’を削除することになりました。ここに現在に続く、透明色の炭酸飲料である『三ツ矢サイダー』が成立しました。2122

透明色のサイダー(出典:photoAC)

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最後に

 三ツ矢サイダーの歴史を取り上げましたが、いかがでしたでしょうか。前身の平野水から数えて実に5度の名称変更、販売元も現在のアサヒ飲料に至るまで8社ほど変わり、容器も瓶詰めから缶、ペットボトルに変更されるなど、日本の清涼飲料史を具現化したような商品です。当館には三ツ矢サイダーの歴代の容器、ラベルが展示されております。是非一度、三ツ矢サイダーの変遷を目の当たりにしてください。




脚注
  1. 「三ツ矢」140周年記念キャンペーンを実施(ニュースリリース 2024年)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  2. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.9~10 ↩︎
  3. ciderとは | 英辞郎 on the WEB ↩︎
  4. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.120~122 ↩︎
  5. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.63~64 ↩︎
  6. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.104~107 ↩︎
  7. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.110~113 ↩︎
  8. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.108~110 ↩︎
  9. 三ツ矢豆知識(三ツ矢サイダー)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  10. 夏目漱石 思い出す事など|青空文庫  ↩︎
  11. 思ひ出す事など|Wikipedia ↩︎
  12. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.32~33 ↩︎
  13. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.114 ↩︎
  14. 「三ツ矢」の歴史 1881〜(アサヒ飲料HISTORY)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  15. 宮沢賢治とやぶ屋|わんこそば やぶ屋 花巻総本店 ↩︎
  16. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』p.50~51 ↩︎
  17. 「三ツ矢」の歴史 1881〜(アサヒ飲料HISTORY)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  18. サイダー市場の成長(アサヒ飲料HISTORY)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  19. 「三ツ矢」の品質向上への取り組み(アサヒ飲料HISTORY)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  20. 「三ツ矢」の品質向上への取り組み(アサヒ飲料HISTORY)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  21. 「三ツ矢」の品質向上への取り組み(アサヒ飲料HISTORY)|アサヒ飲料ウェブサイト ↩︎
  22. 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』第8章 p122~123 ↩︎
参考文献

・立石勝規(2009年) . 『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』 . 講談社 , p.288 .


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