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グリコ ~子供の天職‘食べること’と’遊ぶこと’を叶えるお菓子~

著: ニコチアーナ・フブキ
編: 桜城蘭

目次

グリコ ~子供の天職‘食べること’と’遊ぶこと’を叶えるお菓子~

はじめに

 大阪府に本社を構える食品メーカーである江崎グリコ株式会社は、2022年(令和4年)には創立100周年を迎えました。ポッキー、プリッツ、パピコ、カプリコなど、誰もが一度は食べたことのあるお菓子を製造している、お菓子界の重鎮です。1

 数ある江崎グリコの商品の内、強いて一つだけ挙げるとすれば、会社名の由来にもなっているキャラメル菓子『グリコ』になるのではないでしょうか。企業シンボルにもなっているパッケージデザインと、現代に至るまで様々なおまけが同封されてきたこの商品は、江崎グリコの歴史そのものです。

 今回は、当館に多数の‘おまけ’の展示品がある『グリコ』、ひいては江崎グリコの歴史について紹介します。

江崎グリコのオマケ①(出典:B宝館)

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江崎グリコの創業者、江崎利一

 江崎グリコの創業者、江崎利一(えざき りいち)は、1882年(明治15年)に佐賀県で生まれました。両親は薬種業を営んでおり、長男であった江崎は家事手伝いや弟妹の子守りに勤しんでいたそうです。21901年(明治34年)には父親が死去し、突如として一家の大黒柱となった19歳の江崎は、より一層商売に励んだとされています。3

 ただ江崎は佐賀県で地元の商売人として一生を終えようとは考えておらず、常々人々の健康のためにできることを模索しており、やがては大阪で商売をしようと考えておりました。4

 今でも大阪と言えば東京に次ぐ日本第二の都市ですが、当時は更に隆盛していました。明治維新直後は経済活動が停滞したものの、1890年代以降、綿紡績業とその関連業が発展によって、「東洋のマンチェスター」の異名を取るまでになります。日露戦争後は重工業の生産量が比較的に増加し、東京と共に日本経済を支える大都市に成長しました。5関東大震災による被災民の流入や市域拡大、そして前述の経済発展によって人口数が東京を超えていた1920年代~1930年代の大阪は、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれます。6

 明治の終わりから大正にかけて大きな経済発展を遂げた大阪では、サラリーマン等の中産階級が増えました。その結果、モダンで自由主義的な都市文化が花開き、今までにない商品、サービスが求められており、ビジネスチャンスの宝庫でもありました。このような背景から、江崎は大阪への憧れを抱きました。江崎は1907年(明治40年)には遂に大阪を訪れ、その隆盛ぶりをつぶさに見ています。78

 中産階級に応える形で出てきたビジネスモデルの一つに、百貨店があります。百貨店、あるいはデパートメントストアと呼ばれる小売形態は、1904年(明治37年)に三井呉服店が「三越」として百貨店経営をすることを周知した「デパートメント宣言」を始まりとして、以後日本に定着していきました。大阪でも次々と百貨店が誕生し、趣向の細分化を象徴するかのように、様々な商品が陳列されていました。
 「グリコ」もこうした都市文化、百貨店文化の一つとして世に飛び出すことになります。9 

大阪市中央公会堂(出典:photoAC)
※大阪市中央公会堂は、「大大阪時代」真っ只中の1913年(大正2年)に着工、1918年(大正7年)に竣工しました。
国の重要文化財にも指定されている、‘グレーター大阪’を象徴する建築物です。 

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「グリコ」誕生 

 郷里の佐賀で商売をしていた江崎でしたが、1919年(大正8年)、転機が訪れます。
 佐賀県筑後川の土手を通りがかった際、地元の漁師たちが牡蠣の干し身を作っていました。今でこそ牡蠣と言えば生牡蠣が珍重されていますが、当時日持ちしない牡蠣の生食は地元の人間だけの特権であり、牡蠣はもっぱら茹でられた後に干物として中国大陸に輸出されていました。

 牡蠣を茹で上げる過程を観察していた江崎は、大量にこぼれる煮汁を見て、以前読んだ記事に「牡蠣にはエネルギー代謝に必要なグリコーゲンが多く含まれてい」と書かれていたことを思い出します。漁師から牡蠣の煮汁を譲り受けた江崎は、これを丹念に煮詰めてグリコーゲンを抽出する研究を始めます。

 研究に没頭する最中、8歳になる江崎の息子がチフス(細菌感染症の一種)に罹ってしまいます。医者も匙を投げるほどの重い病状でしたが、牡蠣エキスを摂取させ続けたところ容体が安定し、一命を取り留めます。この経験を経て、江崎は益々グリコーゲンに大きな期待を寄せるようになりました。

 研究を続け、グリコーゲンが豊富に含まれる牡蠣エキスを薬として有効活用しようと考えていた江崎に、ある医者がアドバイスをします。

病気になった人を治すよりも、そもそも病気に罹らない体づくりをする方が肝心。予防に勝る治療なし」……

 その言葉を聞いてハッとした江崎は、当時大流行していたキャラメルに牡蠣エキスを加えて、美味しく楽しく、子供たちの健康を促進できるような菓子を作ろうと決意します。

 キャラメル作りの経験がない江崎はかなりの苦戦を強いられますが、1921年(大正10年)には念願の‘栄養菓子’を誕生させます。これが『グリコ』です。10111213

 この時江崎は満38歳。意を決して、一家総出で大阪に移ります。14

牡蠣(出典:photoAC)

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江崎グリコの旗揚げ

 大阪に進出した江崎は、合名会社「江崎商店」を立ち上げます。15江崎商店はこれ以降、株式会社化や数度の商号変更を経て、1958年(昭和33年)に「江崎グリコ株式会社」と改称され、現在に至ります。16しかしながら、グリコが人々に受け入れられるまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。 

 森永製菓や明治製菓(当時の商号は「東京菓子」)とは企業規模、実績などからして全く相手にならない状況でした。そもそも前述したように、初めて菓子作りをしてからまだ数年しか経っていない江崎からすれば、先発の巨大企業と真正面から立ち向かうなど、どだい無理な話でした。 
 江崎は小さな店を一軒一軒訪ねて取扱店を増やしていくことも考えたものの、それでは途方もない時間がかかると判断し、草の根活動の反対、つまりいきなりトップを抑えることを考え付きます。そのトップとは、三越大阪支店でした。 
 先ほども出てきた百貨店の祖、三越は、その前身である越後屋自体、伊勢松阪(現在の三重県松阪市)出身の三井家により開業された経緯から、元々大阪と縁深い店でした。三越大阪支店は大阪で最も伝統があり、かつ近代的な大規模商店であり、更に良家の婦人客や、孫を連れた祖父母がよく来店するなど、子供たちの健康づくりを目指すグリコを売るには、これ以上ない場所でした。 
 江崎は三越大阪支店に足を運びました。当然ながら、実績もなくお菓子なのか薬なのかわからないものを売ろうとしている業者など相手にされませんでした。それでも江崎はめげずに何度も出向きます。その内根負けした三越の担当者が、グリコを商品棚に陳列するので、在庫を持ってくるように江崎に言いました。こうして三越でグリコの販売が開始されることになりました。 
 時は1922年(大正11年)2月11日(紀元節。今の建国記念日)。江崎グリコ株式会社は、この日を創立記念日に制定しています。17

 その後グリコは紆余曲折を経て、誰もが知る一大商品となりました。前述の江崎グリコ創立から一世紀以上が経った今でも、グリコには「子供たちが健やかに育つように」という、江崎利一の理念が込められています。 

The Kitahama(出典:photoAC)
※大阪府大阪市中央区高麗橋1丁目にそびえる超高層マンション「The Kitahama(ザ・キタハマ)」は、
2005年(平成17年)に閉店した三越大阪支店の跡地に建設されました。 

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『グリコ』のこだわり

 前述の通り、江崎は先発の菓子メーカーである森永や明治に対抗するため、グリコの類似商品との‘差別化’に強くこだわっていました。現在のグリコにも続く江崎利一の並々ならぬこだわりについて、何点かご紹介します。

『グリコ』のこだわり① 商品名

 作り上げたキャラメルをとにかくインパクトのある名称にしたかった江崎は、3文字の商品名にこだわり、原材料のグリコーゲンに由来して『グリコ』と名付けます。ところが社内からは

『グリコ』だと何の菓子か分からないので、『グリコキャラメル』にしたらどうか

 との反対意見が多く出ました。既に森永キャラメルや明治キャラメルがある以上、キャラメルを冠した方が売り出すのに適しているのではないかとの意見です。

 しかしながら江崎は、
 「自分たちが売り出すのは栄養菓子でありキャラメルではない。全く新しい概念の商品であることを強調する名前でなくては、先発企業に勝てない
 と主張し、文字数も少なく覚えやすい、そして響きもよい「グリコ」案を推し通りました。商品名一つ取っても妥協しない、江崎の並々ならぬ覚悟が分かります。181920

 ちなみに江崎の商品名へのこだわりは「グリコ」のみならず、その後の江崎グリコの主力商品においても見られることです。江崎は、商品名は一瞥しただけで認識できる3~4文字程度が望ましく、また感覚的に商品内容が理解できるものが良いと考えていました。例を挙げると「ビスコ」「プリッツ」「ポッキー」「ワンタッチカレー」「カプリコ」「プッチンプリン」「ドロリッチ」「パピコ」「カフェオーレ」「Lee」等……擬音や原材料をもとに、少ない文字数で商品名を再構成していることがよく分かると思います。21

グリコのオマケ②(出典:B宝館)

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『グリコ』のこだわり② ハート形のキャラメル

 また江崎は、『グリコ』の形状にもこだわりました。真心を表す『グリコ』のハート形キャラメルは、子供たちが口に入れても角が当たらず、舌触りが良いとの理由で江崎が考えました。が、菓子製造の専門家からは

柔らかいキャラメルをハート形に仕立て上げるのは不可能

 と断言される始末。そこでめげないのが江崎でした。試行錯誤の末、自らの手で『グリコ』をハート形に成形するローラーを作り上げることに成功します。
 しかしながら、江崎のハート型キャラメルへのこだわりは一時的に中断させられてしまいます。 
 戦後、グリコの製造を再開する中で、ハート型のままでは包装工程の本格的な機械化が難しいことが判明します。機械メーカーにハート形の包装機の開発を依頼したものの実現せず、他社とのコスト競争に負けてしまうことが懸念され、1953年(昭和28年)にグリコは方形になりました。最後までハート形にこだわった江崎は、この時涙を流さんばかりに悔しがったと言います。 
 それから34年後の1987年(昭和62年)、江崎が死去して7年が経っていたものの、ドイツからの輸入機械と国内の包装機メーカーの尽力により、ハート形グリコが復活しました。今に至るまで、ハート形は『グリコ』を象徴するものとして、今なお人々に親しまれています。22232425262728

ハート(出典:photoAC)

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『グリコ』のこだわり③「ゴールインサイン」、「ひとつぶ300メートル」 

 人目を引く商品名『グリコ』、ハート形のキャラメルなど、江崎のこだわりが反映された『グリコ』ですが、その最たる例は、マラソン選手らしき男性がゴールインしている様を切り取った「ゴールインサイン」でしょう。

 道頓堀のネオンサインでも有名な「ゴールインサイン」は、やはり江崎が考え付いたものでした。ある日、佐賀県八坂神社の境内でかけっこをしていた子供が両手を大きく挙げてゴールインをする姿を見た江崎は閃きます。

 「スポーツは健康への近道であり、子供たちの遊びの本能もやはりスポーツに通じている。それを象徴するのがゴールインの姿だ!

 こうして「ゴールインサイン」がグリコのパッケージデザインに採用されました。

 また同時に、『グリコ』の象徴的なキャッチコピーである「ひとつぶ300メートル」も、「ゴールインサイン」と共に生み出されます。

 江崎はキャッチコピー(江崎自身は「惹句」「標語」と呼んでいました)の重要性もよく理解しており、商品名同様、簡潔かつ人々に強い印象を与える語句を考えていました。江崎は、当時佐賀にあった「博多まで」という大粒の飴玉を参考にすることを思いつきます。これは一粒ほおばって汽車に乗ると、博多まで溶けないという意味合いが込められていました。
 江崎はこれをヒントに「ひとつぶ○○○メートル」というキャッチコピーを考えますが、○○○の部分をどうするのか悩みます。500メートルだと大げさであるし、100メートルだと弱い。結果、語呂もよく信憑性も高い300メートルにすることにします。ただこれで終わらないのが江崎の凄いところで、300メートルと銘打ったからには実が伴うべきだとして、軍医監修のもと、本当に一粒に300メートル走れるだけのカロリー量を含有することにしたのです。293031

 このキャッチコピーが優れている点は、尺貫法ではなくメートル表記を採用したところにあります。グリコが発売された1921年(大正10年)にはメートル法度量衡法が公布され、従来の尺貫法からメートル法への移行、統一が図られました。ただこれはあくまで‘上からの改革’であり、日本国民の間でメートル法が完全に浸透するまでにおよそ半世紀かかりました。庶民レベルでは尺貫法が主流であった時代にあえてメートル表記を用いた理由は判明していませんが、おそらくは「グリコ」の新規性を強調する意味合いがあったのでしょう。結果として、「ひとつぶ300メートル」は現代にも続く名キャッチコピーになりました。32

 余談ですが、「ゴールインサイン」のデザインはマイナーチェンジを繰り返しており、現行のデザインは1992年(平成4年)に作られた7代目となります。初代の「ゴールインサイン」は後年のものと比べるとかなり写実的で、ともすれば不気味に捉えられかねないデザインでした。33

 実際にこのようなエピソードがあります。江崎がデパートのお菓子売り場を視察していた時、女学生たちが一旦手に取った『グリコ』を棚に戻す場面に遭遇しました。驚いた江崎は、女学生たちに『グリコ』を棚に戻した理由を聞くと、女学生たちは笑いながら

 「(ゴールインサインの)顔が怖いから

 と答えました。この返答に衝撃を受けた江崎は、より親しみを抱きやすいパッケージデザインへの変更を決意し、2代目「ゴールインサイン」を作成します。3435

 真偽は不明であるものの、この2代目「ゴールインサイン」は複数名の実在した陸上選手をモデルにしているとされています。極東オリンピックで活躍し、日本でも人気の高かったフィリピン人短距離走者のフォルチュナト・カタロン、日本マラソン界の父とされる金栗四三らの姿に着想を得たそうです。36

道頓堀のグリコサイン(出典:photoAC)

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『グリコ』のおまけ

 『グリコ』の開発にあたり子供たちの生活を観察していた江崎は、このような考えに至りました。

子供の天職は、’食べること’と‘遊ぶこと’である

 こうして1922年(大正11年)に販売が開始された『グリコ』には、当初から子供たちの心の健康、即ち知識と情操を育むことを目的とした‘おまけ’が同封されていました。3738

 ところで、今日でもグリコに附録として付いているおもちゃを‘おまけ’と表することが多いですが、これは正確な表現ではありません。前述の通り江崎は‘食べること’と同じウェイトで‘遊ぶこと’を重要視しており、決しておもちゃをおまけ扱いしていた訳ではありませんでした。現在でも江崎グリコでは、おまけではなく‘おもちゃ’と呼称しています。「おまけ付きグリコ」または「グリコのおまけ」は消費者側から自然発生的に生まれた愛称であり、正式な語句ではないことを述べておきます。とはいえ一般的に親しまれているのは‘おまけ’の方かと思いますので、本文でもこちらの呼称を便宜的に使わせてもらいます。39

 販売当初のおまけは、当時京都の村井兄弟商会という煙草業者が自社製品に美人画カードを同封していたことにヒントを得た、絵カードでした。40その後順調に売上を伸ばすと、江崎は子供たちのことをよく知っている幼稚園の教諭から意見を集い、1927年(昭和2年)から本格的におもちゃの提供を開始します。そして1929年(昭和4年)には、今でも定番になっているおもちゃ小箱(‘オマケサック’)が登場しました。

 おまけが別箱となったことは、2つの効用がありました。第一に、別箱にすることでおまけが潰れにくくなり、おまけとして封入する玩具に幅を持たせられるようになったこと、第二に専用の箱におまけを入れたことで、おまけの存在感が高まり、またグリコそのものの商品価値も高まったことです。デメリットとして包装原価が高くなることと、そして何より作業が面倒になることでした。ただおまけに並々ならぬ情熱を持っていた江崎は、自ら作業の標準化と能率化を指導し、従業員が習熟するまで今まで通りの歩合給を支払うことでこれを乗り切ります。
 造幣局に依頼して出来た高品質のメダル(歴史上の偉人が刻印されたもの)や、組み立て飛行機や紙芝居、日記などの大型玩具を、おもちゃ小箱に入れた引換券と交換できる仕組みなどで、グリコの販売実数は伸びに伸びました。 
 こうしてグリコは子供の定番おやつとしての地位を確立するに至りますが、時は1940年代、戦時経済が進むにつれて物資の統制が強化され、やがて‘配給グリコ’と呼ばれる白箱、おまけ無しのグリコのみが生産されることになります。41

 その後1947年(昭和22年)には玩具菓子として、グリコの生産が再開されます。まだ統制経済が敷かれていた時代であり、あくまで玩具菓子としての復活でした。おまけは付けられていたものの、その材料は紙や木、あるいは粘土などで、戦後の物資不足が大きく影響していました。おまけ自体もクレヨンや消しゴムなどの実用品が喜ばれていた時代でもあります。42その後はプラスチック製のおまけが主流となり、更にエコロジーの高まりから、再び紙や木などのおまけが増えていきます。 43

 材料もそうですが、おまけのテーマの変遷は正に日本近現代史の写し鏡と言えます。娯楽が少なくおもちゃそのものが子供の遊び道具であり、またコストやサイズの制約が大きかった戦前は、金魚すくい、ブランコ、万華鏡、紙相撲などの小さなおもちゃが作られました。戦時中には軍国主義を反映して戦闘機や戦車、戦艦、兵隊などが、そして戦後には科学万能時代、高度経済成長を象徴する自動車、ロケット、飛行機、洗濯機、掃除機が、1980年代に入ると、SF、メルヘンといった具合に推移していきました。 44

 時代を超えて、そして時代と共に変わりつつも、江崎がグリコに託した‘食べること’と’遊ぶこと’を同時に叶える菓子、という理念は、今なお受け継がれています。 

グリコのオマケ③(出典:B宝館)

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最後に

 江崎グリコのお菓子『グリコ』を取り上げましたが、いかがでしたでしょうか。1世紀に渡り子供たちの体と心の健康を育んできた『グリコ』とそのおまけは、今後も子供たちの成長を見守り続けることでしょう。当館には戦前、戦中、戦後、そして現代に至るまでの歴代のおまけが所蔵されております。是非一度、ご自身の目でご覧になってください。



脚注
  1. 「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  2. 『私の履歴書 経済人 7』p.145 ↩︎
  3. 『私の履歴書 経済人 7』p.148~149 ↩︎
  4. 「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライ↩︎
  5. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p.43 ↩︎
  6. 大大阪時代 – Wikipedia ↩︎
  7. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p.43 ↩︎
  8. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p.267~269 ↩︎
  9. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 269  ↩︎
  10. 「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  11. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  12. 『私の履歴書 経済人 7』p.160 ↩︎
  13. 甘~いお菓子のパワーの素は、大人の味・牡蠣エキスだった! | 【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  14. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 58 ↩︎
  15. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 56 ↩︎
  16. 江崎グリコ – Wikipedia ↩︎
  17. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 56~61 ↩︎
  18. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 53~54 ↩︎
  19. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  20. (2ページ目)「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  21. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 218~220 ↩︎
  22. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  23. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  24. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 57 ↩︎
  25. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 103~104 ↩︎
  26. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 156~157 ↩︎
  27. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 313 ↩︎
  28. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 329 ↩︎
  29. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  30. (3ページ目)「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  31. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 54~56 ↩︎
  32. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 220~222 ↩︎
  33. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  34. (3ページ目)「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  35. (4ページ目)「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  36. (4ページ目)「グリコの由来は息子を救った“グリコーゲン”」「ポッキーはボツになりかけた」… 〈創立100年〉江崎グリコの創業者がショックを受けた‟女学生”の意外な一言 | 文春オンライン ↩︎
  37. 55億個のおもちゃに宿る、創意工夫の精神 | 【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  38. グリコの歴史|【公式】江崎グリコ(Glico) ↩︎
  39. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 70 ↩︎
  40. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 63 ↩︎
  41. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 68~75 ↩︎
  42. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 100  ↩︎
  43. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 278 ↩︎
  44. 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』p. 278  ↩︎
参考文献

・日本経済新聞社(1980) . 『私の履歴書 経済人 7』 . 日本経済新聞出版 , p.477 .
・宮本又郎(2017) . 『江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター』 . PHP研究所 , 日本の企業家 , p.354 . 


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