コインパーキング利用のお願いとB宝館駐車場有料化(2024年4月~)のお知らせ

コカ・コーラ ~世界で最も飲まれる炭酸飲料~

著: ニコチアーナ・フブキ
編: 桜城蘭

目次

コカ・コーラ ~世界で最も飲まれる炭酸飲料~

はじめに

 アメリカのジョージア州アトランタに本社を構える会社、『ザ コカ・コーラ カンパニー』(以下、『コカ・コーラ社』と呼びます)は、十数万人もの従業員を抱え、200以上の国と地域で3,500種類にもおよぶ商品を製造、販売する大企業です。1
 コカ・コーラ社が世界的多国籍企業に成長したのは、社名に冠する炭酸飲料、『コカ・コーラ』のお陰であるというのは、言うまでもないかと思います。
 流線型のロゴマーク、真っ赤な色使い、そして特徴的な形の瓶……コカ・コーラは現代において最も有名なブランドの一つです。世界中で毎日約19億杯飲まれており、2この世で最も飲まれている炭酸飲料と言えるでしょう。

 今回は、当館にも多数の展示品があるコカ・コーラについて、紹介します。

コカ・コーラの缶(出典:B宝館)

———<広告下にページが続きます———

飲み薬から始まったコカ・コーラ

 コカ・コーラおよびコカ・コーラ社は、誕生から現在に至るまで、会社の経営権など目まぐるしい変遷を辿っています。ここでは大まかなコカ・コーラの歴史を取り上げたいと思います。
 コカ・コーラは、1886年、現在もコカ・コーラ社の本社があるアメリカのジョージア州アトランタで発明されました。発明者はジョン・S・ペンバートン博士という薬剤師です。
 ベンバートン博士はアメリカ南北戦争に従軍した折、負傷時に医療用麻薬であるモルヒネを使用したことでモルヒネ中毒になってしまいました。彼は自身の中毒症状を治すために、当時流行っていたコカインを用いた薬用酒を製造することを思いつき、コカ・コーラを発明することになります。現代の感覚からすると、麻薬による中毒症状を麻薬で治そうとするのは奇異に見えますが、当時のアメリカはその人口と土地の広さに対して医者の数が足りず、代替医療や自然療法が広く庶民に受け入れられた点を踏まえなくてはなりません。
 コカの葉(コカインの源)とコーラ・ナッツのエキスを用いたシロップを作成した博士は、これを地元の薬局で売り出し、やがてシロップをソーダ水で割ったものを販売すると、忽ち大人気になりました。これが現代にも続く、コカ・コーラの誕生譚です。
 ‘コカ・コーラ’という名称は、原材料であるコカの葉とコーラ・ナッツに掛けて編み出されました。考案者はペンバートン博士のパートナー、経理担当のフランク・M・ロビンソンです。現在も使われるコカ・コーラのロゴマークも、元々は彼が筆記体で書き留めたものです。34
 こうしてコカ・コーラの発明者として社会的にも成功したベンバートン博士でしたが、健康を害してしまったため、コカ・コーラ関連の権利をなんと1ドルで手放してしまいます。その後は権利の所有者が二転三転し、やがてエイサ・キャンドラー(後のアトランタ市長)の手に落ちます。キャンドラーは博士の息子らと共にコカ・コーラ社を設立しました。567

コカの葉と南米のポピュラーなハーブティー、コカ茶(出典:photoAC)

———<広告下にページが続きます———

ボトリングによる躍進、ウッドラフによる企業買収

 キャンドラーの経営によって、コカ・コーラ社は順調に売上を伸ばします。特筆すべきは、瓶詰め(ボトリング)販売を駆使して、販路を拡大させていったことです。「え?むしろ今まではどうやって売っていたの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それまでのコカ・コーラは、他の清涼飲料水同様、薬局の一角に設置されたソーダ・ファウンテン(所謂‘ドリンクバー’)において、シロップと炭酸水をミックスして売られる方式が主流でした。それを全米各地にフランチャイズ契約したボトリング工場を設置する方針に転換したことで、販路を急速に拡大させることに成功します。あくまで末端のボトリング工場は瓶詰め、販売するだけで、コカ・コーラの原料については親会社であるコカ・コーラ社から購入する必要がありました。コカ・コーラの原料であるシロップの調合法は、現在に至るまで一切明かされておりません。この瓶詰め販売の手法を活かし、コカ・コーラは海外にも積極的に展開していきます。8910コカ・コーラは生産方式やマーケティングにおける麒麟児でした。

 その他、キャンドラーは1893年に「コカ・コーラ」を商標登録したり11、1903年には原材料からコカイン成分を完全に排除する12など、コカ・コーラ社の礎を築いていきます。

 その後、1919年には投資家のアーネスト・ウッドラフがキャンドラーに企業買収の話を持ちかけ、ウッドラフによってデラウェア州に設立された会社がコカ・コーラ社の商標と事業を継承しました。この一連の買収劇により、現在のコカ・コーラ社は会社の創立年を1919年にしています13
 1923年にはアーネスト・ウッドラフの息子であるロバートが社長に就任し、以降1955年までの長期間にわたり、社長と会長を務めます。14

ドリンクサーバー(出典:photoAC)

———<広告下にページが続きます———

サンタクロースとコカ・コーラ

 コカ・コーラ社の経営に乗り出したウッドラフ親子は、大規模かつ巧みな広告キャンペーンを仕掛けていきます。コカ・コーラに限らず、清涼飲料水業界は需要が落ち込む冬期に頭を悩ませますが、ウッドラフ親子は‘Thirst Knows No Season(のどの渇きは季節を問わない)’というキャッチコピーを打ち出し、暑い季節以外にもコカ・コーラを積極的に売ろうとしました。 
 1930年代になると、そうした考えからコカ・コーラとサンタクロースの結び付きが強くなっていきます。1931年にコカ・コーラ社は、広告にサンタクロースを起用することを決定し、イラストレーターのハッドン・サンドブロムにサンタのデザインを依頼します。サンドブロムは赤い服を着たサンタがおもちゃを運び、子供たちと遊び、そしてコカ・コーラを飲むさまを描いた広告を発表します。サンタの赤い服と白いひげが、偶然にもコカ・コーラのロゴマークの配色と一致していたことで、サンタクロースはコカ・コーラ社の宣伝活動に大いに貢献しました。 
 現代のサンタクロース像はコカ・コーラ社が創り上げたものとする言説もありますが、それは真実半分嘘半分といったところです。実際にはサンタクロース=赤い服、白いひげとのイメージはそれ以前にも存在しており、コカ・コーラ社がそうしたサンタクロース像を世界的に広める役を担った、とするのが正しいかと思います。15

サンタクロース(出典:photoAC)

———<広告下にページが続きます———

戦争とコカ・コーラ

 アメリカが第二次世界大戦へ参戦すると、ロバート・ウッドラフは「軍服を着た全ての兵士がどこにいても、会社にいくら費用がかかっても、5セントでコカコーラ1本を受け取れるようにする」という命令を出しました。16これは自身も愛飲者であり、後年コカ・コーラ社より政治的支援を受けることになるドワイト・D・アイゼンハワー連合国軍最高司令官(後のアメリカ大統領)が、アメリカ本国にいるジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長に対して「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし」と打電したことに端を発します。17

 コカ・コーラは兵士たちの士気を高める重要なものとして、戦時中の必需品とみなされていました。兵士にコーラを迅速かつ効率的に供給できるよう、コカ・コーラ社の従業員が軍人待遇で前線に送られた程です。
18
 アメリカ属する連合国の勝利に終わった第二次世界大戦によって、コカ・コーラはアメリカ文化、ひいては西側(資本主義)陣営を代表するアイコンとして世界中に広まっていきました。そこで困惑したのが、ソ連の英雄、ゲオルギー・ジューコフ将軍です。ジューコフ将軍は終戦直後、アイゼンハワー将軍との会談で振舞われたコカ・コーラの虜になり、以後愛飲していました。ところが戦争が終結してアメリカとソ連の間で冷戦が繰り広げられるようになると、アメリカ帝国主義の代表例としてつるし上げられていたコカ・コーラは、ロシア国内での販売、流通が禁止されてしまいます。困ったジューコフ将軍は密かにアメリカ側に、ヴォトカ(東欧、中欧で広く飲まれる蒸留酒。ウォッカとも) に似せたコカ・コーラの製造を依頼します。 
 こうして出来たのが、コカ・コーラからカラメル色素を取り除いた無色透明の「ホワイトコーク」であり、ジューコフ将軍はコカ・コーラを飲めるようになりました。わずかに50箱が製造されただけでこのプロジェクトは中止されましたが、コカ・コーラが時代によって躍進を遂げ、そして翻弄されていることがよく分かるエピソードです。19
 

ウォッカ(出典:photoAC)

———<広告下にページが続きます———

ペプシの脅威とニュー・コークの大失敗

 前述の通り東側(社会主義)陣営から排斥されていたコカ・コーラですが、冷戦末期の1985年にはソ連で、ベルリンの壁が崩壊した1989年の翌年である1990年には東ドイツでもコカ・コーラの販売が始まりました。そして1991年にソ連が崩壊し東西冷戦が終結すると、旧社会主義国家はこぞって資本主義のモノ、サービス、文化に手を伸ばします。その中でもコカ・コーラは資本主義的ライフスタイルの典型例として目されており、その人気は急激に高まっていきました。
 敵知らずかに思えたコカ・コーラですが、1970年代半ばから強力なライバルが現れます。ペプシコ社有する「ペプシ」です。ペプシコ社はコカ・コーラ社に対する宣戦布告めいた広告を次々に打ち出していき、コカ・コーラ社の牙城を少しずつ削っていきます。1980年代にはペプシのシェアがコカ・コーラを上回るなど、俗に「コーラ戦争」と呼ばれる戦いは、激化の一途を辿ります。
 それに危機感を抱いたコカ・コーラ社は極秘プロジェクトである「カンザス計画」を進め、1985年に決行します。これはコカ・コーラ販売から100周年である1986年を前にして、コカ・コーラの味を根本から変えるというものでした。こうして1985年4月、従来よりも甘みと爽やかさが強い「ニュー・コーク」が発売されました。 
 ところが、新旧フレーバーを併売せずにいきなり切り替えたことから世界中の消費者から非難が殺到し、わずか79日後には元の味である「コカ・コーラ クラシック」が発売され、あっという間に元通りになりました。以後、「ニュー・コーク」の反省を活かして、コカ・コーラ社の企業戦略はより入念になっていきました。世界各国で人気の清涼飲料水に関して会社の買収、業務提携を積極的にすることで、コカ・コーラ社製品の世界市場占有率を高めることに成功します。コーラ戦争は今なお続いていますが、アメリカでのコーラ市場は依然コカ・コーラがシェア1位であり、コカ・コーラの勢いはまだまだ続きそうです。 
 なお、死の淵にいたロバート・ウッドラフを説得して「ニュー・コーク」を販売したり、世界で最も人気のある低カロリー飲料である「ダイエット コカ・コーラ」(1982年発売)を生み出したのは、当時のコカ・コーラ社会長兼社長のロベルト・ゴイズエタでした。ゴイズエタは社会主義政権を嫌ってアメリカに亡命したスペイン系キューバ人で、その辣腕でコカ・コーラ社の時価総額を40億ドルから1,500億ドルにまで引き上げた名経営者です。「ニュー・コーク」の失敗も、それ自体をコカ・コーラ社の宣伝活動に入れることで売上を大幅に伸ばすなど、その経営手腕の程が伺えます。 
 ちなみに「ニュー・コーク」は最初から宣伝活動のための企画だったのではないか?との声があるのですが、コカ・コーラ社は否定しており、またゴイズエタも終生、「通常のコカ・コーラよりも「ニュー・コーク」が優れている」と発言していたようです。20212223

キューバ・ハバナの街並み(出典:photoAC)
※キューバはコカ・コーラが市販されていない国として有名です。
(コカ・コーラが市販されていない国は、キューバの他には北朝鮮があるのみです)

———<広告下にページが続きます———

コカ・コーラの容器

 コカ・コーラとコカ・コーラ社の変遷については、ある程度お分かりになったかと思います。この後は当館の展示品も踏まえて、コカ・コーラの容器をについて見ていきましょう。

 当館に所蔵されているコカ・コーラの容器は、缶が主体です。ただコカ・コーラと言えばあの独特な形の瓶を思い浮かべる方も多いかと思います。瓶のデザインは1915年に制定されたのち、基本的な造形は変わることなく現在でも使われ続けています。デザインの元ネタとして、当時流行っていた女性のスカートや、女性の体系そのものを参考にしたとも言われますが、いずれも眉唾物の話だそうです。当時、粗悪な模倣品に悩まされていたコカ・コーラ社が、暗闇でも手触りで差別化できるような容器にするために、複雑な形状になったと言われています。24

コカ・コーラの瓶(出典:photoAC)

 前述の通り、瓶詰め(ボトリング)販売によって名を成したためか、コカ・コーラ社は缶入りのコカ・コーラを販売することに当初は抵抗感があったようです。それでも第二次世界大戦後には他社の缶入り飲料が続々と成功を収めていたことに危機感を持ち、缶入りのコカ・コーラが販売されることになります。
 1955年に作られた最初のデザインは、ひし形の中にコカ・コーラのロゴが印字された至ってシンプルなものでした。(右下の写真、左から1本目、2本目)1961年にはひし形の中に、コカ・コーラを象徴する瓶が印字されたデザインに変更されることになります。(右下の写真、左から3本目、4本目)
 更に1966年には、‘ハーレイクイン’(小さなひし形が複数ある図柄)デザインが登場しました。(左下の写真、左から3本目、4本目)小さなダイヤモンドの中にコカ・コーラのロゴが収まり、中心には愛称である‘Coke’が印字された、非常に美しいデザインと言えます。
 1970年、現在でも続く‘スパイラル’(螺旋)デザインが登場しました。ただ当初印字されていたのはCoca-Colaではなく愛称のCokeであったのが面白いですね。(左下の写真、右から2本目)その後は、Coca-Colaが印字されるようになりました。(左下の写真、右から1本目)2526

色々なコカ・コーラの容器(出典:B宝館)

———<広告下にページが続きます———

最後に

 コカ・コーラについて取り上げましたが、いかがでしたでしょうか。世紀をまたいで人々の渇きを癒してきたコカ・コーラは、今なお世界で最も飲まれる清涼飲料水として愛され続けていくことでしょう。当館には記事で取り上げた展示品の他にも、色々なコカ・コーラ商品が展示されています。是非一度、ご自身の目でご覧になってください。



脚注
  1. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.4 ↩︎
  2. コカ・コーラ社製品は世界の何か国で飲まれている? | 日本コカ・コーラ お客様相談室 ↩︎
  3. The Birth of a Refreshing Idea – News & Articles ↩︎
  4. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.6  ↩︎
  5. コカ・コーラの始まり、歴史|日本コカ・コーラ お客様相談室 ↩︎
  6. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.6 ↩︎
  7. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.30 ↩︎
  8. 米国ソフト・ドリンク産業における販売地域割当て規制:1970-1980年代-コカ・コーラ社のボトリング契約を中心として|山口一臣 ↩︎
  9. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.30 ↩︎
  10. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.8 ↩︎
  11. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.7  ↩︎
  12. コカイン – Wikipedia ↩︎
  13. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.30 ↩︎
  14. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.9  ↩︎
  15. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.9  ↩︎
  16. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.8  ↩︎
  17. The Chronicle Of Coca-Cola: A Symbol of Friendship ↩︎
  18. コカ・コーラ好きなソ連の元帥が、鉄のカーテンの向こうにコーラを運んだ方法 | Business Insider Japan ↩︎
  19. White Coke: The capitalist drink Soviet generals couldn’t get enough of – Russia Beyond ↩︎
  20. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.16~17 ↩︎
  21. コーラ戦争 – Wikipedia ↩︎
  22. カンザス計画 – Wikipedia ↩︎
  23. Roberto Goizueta – Wikipedia ↩︎
  24. 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』p.11 ↩︎
  25. Coca Cola Soda Can History Page ↩︎
  26. 炭酸飲料の缶パッケージデザインの歴史 | ギズモード・ジャパン ↩︎
参考文献

・カス・センカー (著)、こどもくらぶ (編集)、稲葉 茂勝(翻訳)(2014) . 『コカ・コーラ (知っているようで知らない会社の物語) 』 . ‎彩流社 , p.30 .


この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次