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コレクションコラム vol.11【ドラえもん ~日本が生んだ‘SF(すこしふしぎ)’で最大最強の作品~】[テーマ:ドラえもん①]

著: ニコチアーナ・フブキ
編: 桜城蘭

目次

ドラえもん ~日本が生んだ‘SF(すこしふしぎ)’で最大最強の作品

はじめに

 「こんなこといいな できたらいいな」……

 日本に生まれ育ったら誰もが聞いたことがあるであろう、「ドラえもん」のOPの冒頭です。四次元ポケットから取り出されるひみつ道具の数々は、前述の歌詞に見られるように、人々が思うちょっとした願いを叶えてくれる夢の存在でした。

 22世紀からやってきた猫型ロボットのドラえもんが、スポーツも勉強もからきしダメな小学生、野比のび太と繰り広げる日常を描いた漫画「ドラえもん」は、藤子・F・不二雄の手によって1969年(昭和44年)に誕生したのち、日本のみならず全世界で愛される一大コンテンツになります。関連書籍の全世界発行部数は実に3億部を超え1てんとう虫コミックスの「ドラえもん第一巻だけでも246刷434万1000部(2020年6月時点)2を数えます。また1979年(昭和54年)にテレビ朝日で放映が開始されたアニメは2005年(平成17年)の声優、制作陣の大幅なリニューアルも挟み、現在3でも続いています。

 数々の名作、ヒット作、キャラクターを生み出してきた日本のコンテンツ産業でも、実に三世代(もしかすると四世代)に渡って継続的に新作が作られ、愛される作品は他に類を見ません。今回はそんなドラえもんの歴史について、ご紹介しています。

登戸駅(近くに藤子・F・不二雄ミュージアムがある)(出典:photoAC)

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ドラえもんの作者「藤子不二雄」

 ドラえもんを語る際に忘れてはならないのは、作品が発表された際の名義です。
 ドラえもんの作者である藤子・F・不二雄(本名:藤本弘。以下、藤本)は、1987年(昭和62年)まで藤子不二雄Ⓐ(本名:安孫子素雄。以下、安孫子)と「藤子不二雄」の共同ペンネームで作品を発表しており、ドラえもんもその例外ではありませんでした。
 とはいえドラえもんは安孫子との合作ではなかったため、両名の独立後は藤本の単独作品として扱われています。4(作中でメタ表現として作者が現れる際、藤本と安孫子が並んで現れているのは、連載当時は独立前であったためです)

高岡駅(富山県高岡市は、藤子不二雄両名が少年時代を過ごした場所です)(出典:photoAC)

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ドラえもん誕生までの経緯 ~富山が生んだ奇跡のコンビと手塚治虫との邂逅、そしてトキワ荘へ~

 藤本、安孫子が如何にして漫画家になったのかについては、安孫子の自伝的漫画「まんが道」に詳細が書かれていますが、ここではドラえもん執筆までの出来事について端的に述べていきたいと思います。

 1944年(昭和19年)の富山県高岡市で出会った藤本、安孫子は、お互い漫画好きということもあり意気投合し、また手塚治虫が1947年(昭和22年)に発表した「新宝島」に大きな衝撃を受け、漫画家を目指すことになります。高校卒業後に手塚治虫を訪ね、益々漫画熱が高まった藤本は、なんと就職した製菓メーカーを‘ 5日ぐらい(本人談)5で辞め、漫画執筆に専念していきます。新聞社勤めをしていた安孫子も誘って、1954年(昭和29年)6月には二人で上京します。後にレジェンド漫画家たちの梁山泊と評されたトキワ荘に、手塚治虫の部屋に入れ替わりで入居した藤本、安孫子は、順調に仕事を増やしていきます。6

トキワ荘マンガミュージアム(出典:photoAC)

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ドラえもん誕生までの経緯 ~スタジオ・ゼロと‘オバQ’の大ヒット~

 トキワ荘の面々が神聖視していた手塚治虫のアニメ「鉄腕アトム」に影響を受け、7藤本、安孫子は1963年(昭和38年)に、石ノ森章太郎つのだじろう鈴木伸一らと共にアニメ制作会社「スタジオ・ゼロ」を立ち上げます。が、アニメ制作はおろか会社経営の素人ばかりであったため赤字が続き、倒産一歩手前まで追い詰められてしまいます。
 そんな折、ちょうど小学館から新連載の企画を持ち込まれた藤本、安孫子は起死回生の策を考えつきます。それはスタジオ・ゼロ内に雑誌部を作り、連載の稿料をゼロの収入とすることでした。こうして藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫(多忙な赤塚に代わり、当時赤塚のアシスタントだった北見けんいち氏(代表作:釣りバカ日誌)が実質的に描いていたそうです)、つのだじろうしのだひでおという史上類を見ない程豪華なメンバーで描かれた漫画「オバケのQ太郎(以下、「オバQ」)」が誕生します。
 オバQは、テレビアニメ化を契機に大ヒットします。1967年(昭和42年)に建てられた小学館の本社ビル(老朽化に伴い、2013年(平成25年)に解体)の建築費はオバQの収益だけで賄える程でした。8910

 その後、スタジオ・ゼロの解散によって藤本、安孫子は、再び漫画制作に専念します。

小学館の本社がある、東京都千代田区一ツ橋の風景(出典:photoAC)

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ドラえもん誕生までの経緯 ~藤子・F・不二雄、不遇の時代~

 ただ1960年代後半の藤本は、オバQの成功が逆に足枷となり、オバQのイメージから脱却しようとしては作品が短期で打ち切られるという不遇の時代を過ごしていました。折しも劇画ブームの全盛期であり、藤本が得意とする児童漫画には逆風が吹いていたのです。11ドラえもんが発表されるまでの藤子スタジオ(藤子不二雄の漫画制作プロダクション)は、当時「怪物くん」を始め複数の連載作品を抱えていた安孫子の方が圧倒的に忙しく、藤本作品を手伝うアシスタントはえびはら武司氏(代表作「まいっちんぐマチコ先生」)のみであったそうです。12

光禅寺(藤子不二雄Ⓐ(安孫子)の生家)(出典:photoAC)

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ドラえもん誕生 ~原点回帰とSFの化学反応~

 1968年(昭和43年)から小学館の小学校低学年向け学年誌で連載されていた「ウメ星デンカ」の打ち切りに伴い、藤本は次回作の構想を練っていました。講談社で連載が始まっていた「モジャ公」の執筆もあり、中々時間が取れない中でのアイデア出しは難航を極めます。13(ちなみに「ウメ星デンカ」の最終回は余裕のなかった藤本に代わり、先ほどスタジオ・ゼロの章にも出てきた‘第三の藤子不二雄’、しのだひでおが作画を代行しています14

 藤本は、ロバート・A・ハインラインによるSF小説の名作「夏への扉」をモチーフにして、‘タイムトラベル’、‘’といった要素を用いて、それでいてオバQのQ太郎のようにどこか間が抜けていて愛されるキャラクターの創造を行っていきます。15

 そのような中で、かの有名な「タイトルもドラえもんも描かれておらず、のび太が机の中から飛び出てきた何かに驚いている」だけの予告カットが学年誌に掲載されました。ドラえもんの初代担当編集者である河井常吉氏は、余りにも情報量の少ない予告カットを見た上司から厳しく叱責されたそうです。16

 そして1969年(昭和44年)12月より、小学館の各学年誌で「ドラえもん」の連載が開始されました。17

猫(出典:photoAC)

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世界に羽ばたくドラえもん ~芳しくない読者の反応、アニメの失敗、そして……~

 こうして連載が開始されたドラえもんでしたが、肝心の読者人気はいま一つ1819でした。1973年(昭和48年)には日本テレビでアニメ化を果たしますが、フジテレビ系列で同時間帯(金曜19時台)に放映されていた永井豪氏の「マジンガーZ」に押され気味であまり視聴率を取れず、およそ半年で終了してしまいます。アニメオリジナルキャラの登場や突然の声優変更など、原作者である藤本も‘黒歴史’扱いする作品でしたが、それまで学年誌のみでしか触れることができなかったドラえもんが全国ネットでアニメ化されたことは、知名度アップに繋がった面もあります。202122

 当時はテレビアニメが終わると原作漫画もリンクして終了する風潮があり、ドラえもんもその例外ではありませんでした。実際にドラえもんは各学年誌で最終回が描かれ、全6巻の単行本が発売されることになります。
 ところがいざ単行本が出てみると、あれよあれよという間に発行部数が伸びていき、瞬く間に数百万部まで到達しました。連載再開を求めるファンレターが殺到したこともあり、半年後には第7巻を発売するに至ります。23

 その後の躍進は、冒頭に述べた通りです。今でこそ日本の国民的作品となったドラえもんですが、連載初期には様々な苦難があったのです。

どこでもドア(出典:photoAC)

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展示品紹介

 当館に所蔵されているドラえもん関連の展示品の一部を紹介します。

ポップコーンバケット

 ドラえもんの映画公開と併せて映画館の売店で売られる、ポップコーンバケットです。右は2007年(平成19年)に公開された「のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜」、左は2017年(平成29年)に公開された「のび太の南極カチコチ大冒険」、のものです。 こうして並べてみると、年々バケットのクオリティが上がっているのが分かりますね。

ドラえもんグッズ①(出展:B宝館)
森永製菓 オレンジゼリー

 こちらも、映画関連の展示品です。例年ドラえもん映画が公開される時期になると、森永製菓から販売されているオレンジゼリーがドラえもん仕様になります。(写真に写っているのは、2012年(平成24年)に公開された「のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜」時のもの)

 森永製菓は他にも多くの商品でドラえもんとタイアップを行っており、ハイチュウ、板チョコアイス、おっとっとなどのパッケージにも、ドラえもんたちが登場することがあります。

ドラえもんグッズ②(出典:B宝館)

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最後に

 ドラえもんの歴史について取り上げましたが、いかがでしょうか。

 ドラえもんは終生児童漫画の執筆に重きを置いた藤子・F・不二雄が得意としたSF(‘すこしふしぎ’。「ありふれた日常の中に紛れ込む非日常的な事象」のこと)が遺憾なく発揮された作品でした。

 誕生から半世紀以上。テレビアニメは途切れることなく毎週のように放映され、またアニメ映画も毎春必ず公開されるドラえもんは、世代を超えてこれからも人々に愛され続けていくことでしょう。


脚注
  1. ドラえもん – Wikipedia ↩︎
  2. そもそも、てんとう虫コミックス『ドラえもん』とは?|「100年ドラえもん」公式 ↩︎
  3. 2024年(令和6年)現在 ↩︎
  4. 藤子不二雄 – Wikipedia ↩︎
  5. 「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」p.42 ↩︎
  6. 藤子不二雄 – Wikipedia ↩︎
  7. 「トキワ荘の遺伝子: -北見けんいちが語る巨匠たちの横顔-」p.66 ↩︎
  8. 「トキワ荘の遺伝子: -北見けんいちが語る巨匠たちの横顔-」p.64~66 ↩︎
  9. 「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」p.49~53 ↩︎
  10. 「藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(2)定年退食」p.27~58 ↩︎
  11. 藤子不二雄 – Wikipedia ↩︎
  12. 「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」p.19 ↩︎
  13. ドラえもん – Wikipedia ↩︎
  14. 「藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもん達との思い出編」p.68 ↩︎
  15. 「藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもん達との思い出編」p.31~35 ↩︎
  16. ドラえもん初代担当編集が先生との日々を回想、辻村深月「かわいくて仕方なかったはず」(イベントレポート / 写真20枚 / 動画あり) – コミックナタリー ↩︎
  17. ドラえもん – Wikipedia ↩︎
  18. ドラえもん:初代担当編集・河井常吉が明かす誕生秘話 伝説の予告は「上司に怒られた」 第1話に藤子・F・不二雄の粋な計らい – MANTANWEB(まんたんウェブ) ↩︎
  19. 「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」p.12 ↩︎
  20. 幻の「日テレ版ドラえもん」とは? 再放送中止から40年以上 | ハフポスト アートとカルチャー ↩︎
  21. 「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」p.12 ↩︎
  22. 「藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもん達との思い出編」p.18 ↩︎
  23. 「藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~」p.13~24 ↩︎
参考文献

・えびはら武司(2015) . 『藤子スタジオアシスタント日記~まいっちんぐマンガ道~』 . 竹書房 , [p.176] .
・えびはら武司(2017) . 『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 名作秘話編』 . 竹書房 , [p.176].
・えびはら武司(2018) . 『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもん達との思い出編』 . 竹書房 , [p.184] .
・北見 けんいち (著), 小田 豊二 (著), 長崎 尚志 (企画・原案)(2024) . 『トキワ荘の遺伝子: -北見けんいちが語る巨匠たちの横顔-』 . 小学館 , [p.256] .
・藤子・F・ 不二雄(2000) . 『藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(2)定年退食』 . 小学館 , [p.351] .


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