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クソうまい?コピ・ルアク ~蘭の夢、桜の城に宿る【#4】~

著:桜城蘭
編:桜城蘭

クソうまい?コピ・ルアク ~蘭の夢、桜の城に宿る【#4】~

クソうまい?コピ・ルアク ~蘭の夢、桜の城に宿る【#4】~

500円ランチの筆者が手を出した “伝説の豆”

 日々、松屋の500円ランチに満足し、コスパ重視の生活を貫く筆者である。だが、そんな自分にも時に「これは人生経験だ」と言い訳しながら、無謀な一歩を踏み出す瞬間がある。今回の話は、まさにその典型例だ。

 手を出してしまったのは、世界的に有名な超高級コーヒー「コピ・ルアク」。耳にしたことがある人もいるだろう。高級の枠を超え、その希少性と奇抜な製法から、“伝説級”とまで語られることもある豆である。だがその製造過程と価格には、筆者としてもなかなかの衝撃を受けざるを得なかった。

イメージ:コピ・ルアク

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出会いは “うんち展”

 コピ・ルアクとの出会いは、なんと「うんち展(※1)」だった。文字どおり、動物の排泄物“うんち”をテーマにした科学展である。
 生物学的な視点から“うんち”の意味と多様性を掘り下げる、教育的かつどこかユーモラスな催しで、意外にも多くの学びがあった。

 展示の中盤で、ジャコウネコがコーヒーの実を食べ、排泄物から希少な豆が採れるという仕組みについて紹介されていた。
最初は軽い気持ちで読み進めていたが、じっくり解説を見ていくうちに、「なるほど、これはただの珍味ではない」と、少し考えが変わっていった。

 展示を見終え、フロアを抜けた先にあった物販コーナー。そこで見つけたのが、例の“コピ・ルアク”のコーヒー豆だった。
 思わず足を止め、「ああ、あれがここで買えるのか」と驚く。
 展示の流れを理解したうえで目にするその豆は、単なる“変わり種グッズ”ではなく、展示の延長線上にあるリアルな体験として、妙に説得力を持っていた。

 もちろん、ネタとしてのインパクトも大きい。値段は松屋10食分をゆうに超えていた。
 財布が止めに入ったが、今回は納得して手に取った。
 レジで手が震えたのは、たぶん価格のせいというより、“展示のストーリーに乗ってしまった”せいだと思いたい。

 (注)※1…「2025年3月18日(火)~ 5月18日(日)」の期間で、東京ドームシティ Gallery AaMoにて開催中の「うんち展 -No UNCHI,No LIFE-」

東京ドームシティ Gallery AaMo(筆者による撮影)
入口に鎮座する巨大うんちモニュメント(筆者による撮影)

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コピ・ルアクとは ~うんちから生まれる芳香~

 「コピ・ルアク」とは、インドネシア語でコーヒー豆を指す「コピ」と、マレージャコウネコの現地名である「ルアク」を意味する言葉である。
 その名の通り、ジャコウネコがコーヒーの実を食べ、体内で消化・発酵されたのちに排泄された未消化の豆を採取・洗浄・精製して作られる、非常にユニークなコーヒーだ。

 腸内で自然発酵された豆には、まろやかで雑味のない風味が宿るとされ、希少性と話題性を兼ね備えた“伝説級”の存在として、長年にわたり注目を集めてきた。
 その異色さゆえ、テレビや雑誌、ネットでもたびたび紹介されており、飲んだ経験そのものが一種のステータスになるほどだ。

 ただし近年では、その生産背景に対して倫理的な問題も指摘されている。
 もともとは野生のジャコウネコの排泄物から自然に採取されていたが、観光需要やビジネス目的の拡大により、狭いケージで飼育した個体にコーヒーの実を強制的に与える事例が増えているのが現実だ。

 このことを、もっと深く知っていたら——
 あの展示会で、豆を手に取る際の気持ちも、少し違ったかもしれない。そのくらい、この一杯には複雑な背景が詰まっている。

イメージ:マレージャコウネコ

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実飲レビュー ~紅茶のような自然派コーヒー~

 展示会の物販コーナーで手にしたコピ・ルアクのパッケージは、想像以上に洒落ていた。
 ジャコウネコのシルエットとコーヒーの枝をあしらったデザインが印象的で、どこかギフトのような気配すらある。
 手に取った瞬間、「ああ、たしかに特別な豆なんだな」と実感が湧いた。

物販コーナーでゲットした”コピ・ルアク”(コーヒー豆)

 自宅に戻り、久しぶりに電動ミルを引っ張り出す。
 袋を開けた瞬間、ふわりと立ちのぼる香りは、どこか土のようで香ばしく、そして少し不思議な匂いだった。
 「これが、あのジャコウネコ由来の豆か……」という実感とともに、静かにミルのスイッチを入れる。

 この工程は記録しておこうと思い、豆を挽くところから抽出までの様子を写真に収めた。
 いつもと同じ器具、同じキッチンなのに、心のどこかで“実験”をしているような気分になっていた。

電動コーヒーミルに豆を入れる
挽き倒される豆
フィルターに投下
良い感じに抽出されるコピ・ルアク

 実際に豆を挽いて淹れてみると、見た目はごく普通のコーヒーと大きく変わらない。だが、湯気とともに立ち上る香りには、明らかに“違い”があった。

 口に含んだ第一印象は「すっぱさ」。だが、それは決して不快な酸味ではなく、柑橘を思わせるフルーティーで爽やかな酸味だった。
舌の上で軽やかに弾けるように広がり、思わず「おっ」と声が出る。

 苦味はほとんどなく、全体的にさらっとしている。どこか「木っぽい」風味と、草原のような自然な香りがふわりと鼻に抜けていく。
 「ああ、これは自然の力でしか生まれない味だ」と、直感的にそう思った。

 後味は非常にすっきりしていて、余韻も短め。むしろ紅茶を飲んでいるような印象すらあり、
 コーヒーというより、森の中で淹れたハーブティーを味わっているような感覚だった。

おしゃカップ
自然を感じる風味

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No Unchi, No Life ~生命の循環と一杯のコーヒー~

 世の中には、「No Music, No Life」や「No Coffee, No Life」といった標語があふれている。だが、今回ばかりは「No Unchi, No Life」という言葉が、妙に腑に落ちた。

 排泄とは、生き物が生きていくうえで避けて通れない営みであり、同時に自然の循環の一部でもある。
そのサイクルの中から、こんなにも贅沢で繊細な味わいが生まれているのだと考えると、軽い感動すら覚える。

 消化、排泄、発酵、洗浄、焙煎、抽出——
 そのすべての過程を経て、一杯のコーヒーが私たちのもとに届く。
 そう思うと、この一杯はもはやただの嗜好品ではなく、命の営みそのものが生み出した“作品”なのではないかとさえ思えてくる。

No Unchi, No Life

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しかし高い。やはり高すぎる。

 美味しかった。それは間違いない。だが問題は、やはりその価格である。

 松屋10食分をゆうに超える値段の一袋。
 「この一杯に、それだけの価値があったのか?」と問われれば、今でも答えに詰まる。

 味の印象が軽やかだっただけに、飲み終えたあと、財布にも軽やかな風が吹き抜けた。
 それでも、「あのコピ・ルアクを一度飲んだことがある」という経験は、ちょっとした人生のネタになる。
 高かったけど、後悔はしていない。……いや、少しくらいはしている。

流石に5,000円超は高いって思ってまう

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倫理的な問題 ~もう買わない(というより買えない)~

 前述のとおり、コピ・ルアクには倫理的な問題がつきまとう。
 本来は野生のジャコウネコの排泄物から自然に採取されていたこの豆も、近年では商業的需要の高まりにより、飼育下での生産が主流となりつつある。

 多くの農園では、狭く不衛生なケージの中でジャコウネコを飼い、コーヒーの実だけを強制的に食べさせているという。
 動物へのストレスは大きく、その健康状態も問題視されている。

 このような背景を知ってしまうと、「また買うか?」という問いに対して、否と答えるほかない。
 倫理的にも、価格的にも、筆者にとっては“今回限りの贅沢”だったのだと思う。

動物好きとしては…

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うんちとコーヒーと人生の話

 コピ・ルアクは、味覚的にも精神的にも、ひと味違った体験をもたらしてくれた。
 自然、動物、人間の営みが複雑に絡み合って生まれた一杯は、もはや嗜好品という枠を超え、何か深いものを含んでいるようにも思える。

 とはいえ、万人におすすめできるかといえば、答えはノーだ。
 価格は高く、倫理的な問題も重い。
 気軽にリピートするような飲み物ではないし、興味本位で手を出すには、それなりの覚悟がいる。

 それでも、あの展示会で「うんち」というテーマに導かれてこの豆と出会い、
 一杯のコーヒーからこれほど多くを考えさせられたことは、
 きっとこれからの人生の彩りのひとつとして、記憶に残り続けるだろう。

 No Unchi, No Life——
 今後は豆よりも、この言葉を噛みしめながら生きていきたい。

「うんちしき トイレットペーパー」@ B宝館

記事を書いた人

桜城蘭

名前

 桜城蘭(読み:おうじょうらん)

各種SNS

  @ran_oujou

  coming soon…

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人物紹介

B宝館の2代目館長。
そしてそれは、仮の肩書きではなく、真の姿の名である。

桜城蘭がその姿を現すのは、
メディア出演、登壇、式典、その他「これはもう隠れきれない」という
不可抗力のイベントが発生したときに限られる。
その際の姿は、プロフィール写真に写るとおり――
過不足なく、盛りも削りもない“本体”だ。

それ以外の時間、館長は人間界に溶け込む。
名を変え、姿を伏せ、
展示物の影や日用品の隙間に身を潜めながら、
静かにこの世界を観察している。

桜城蘭とは、
前に立つ存在であると同時に、
できるだけ前に出ない存在でもある。

今日もまた、
何も起こらなければ仮の姿のまま。
何かが起これば――
そのときだけ、桜城蘭は姿を現す。

B宝館の扉が開くとき、
そこにいるかどうかは、少し運次第である。



脚注
参考Webサイト

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